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徳川家康は何故長生きしたのか?。
『長寿[元気でボケずに長生きする方法]について。』 田村医院 田村 仁
『人生50年、化転[けてん]の内をくらぶれば、夢幻の如くなり』の時代に75歳と言う長寿をした徳川家康についての論文を読みましたので報告します。
2000年4月に読んだ医事新報に白川博士が書いた論文をまとめて解り易く解説を加えました。最近の簡易生命表によると、日本人の平均余命は更に延び、男性は77,16歳。女性は84,01歳と世界最高の長寿国になっています。特に女性の世界一は昭和60年[1985]年から続いています。『長生きをしたかったら親を選べ』とか『長寿は遺伝子を選ばねば』等という説に反対の立場を取っています。冷静に考えるとこの先生の説が正しいようです。
縄文時代の人骨の鑑定からこの時代の平均寿命は20歳。弥生時代は25歳、江戸時代の平均余命は40歳前後で、成人した人々の平均死亡年齢は50歳前後であったと記されています。大正10[1921]〜14[1925]年は、男性42,05歳、女性43,20歳。昭和10[1935]年〜11年、男性46,92歳、女性49,43歳。又昭和22年[1947]男性50,06歳、女性53,96歳。と昭和22年頃までは本当に人生は50年だった。現代は80歳くらいの人性の諸先輩がたくさんいます。『何故・何故・なんで〜??』の回答は次の『徳川家康は何故長生きした?。』に回答はあります。
1:徳川家康の家系について。父親の弘忠は24歳、祖父の清康は25歳と早く暗殺[刺殺]されています。母親於代の方[伝通院]は75歳、祖母のお富の方[華陽院]は53歳でなくなりました。この先の祖祖父母等は記録にありませんので調査は不可能。子供たちを次に調査しました。家康には男の子11名と女5名の16名の子供たちがいて、2代将軍徳川秀忠54歳、3代将軍の徳川家光以下15台将軍までの調査では、男の子の平均寿命は49,8歳と決して長寿の家系ではない。でも平均的にはやや長寿の家系かな〜?とは思いましたが・・。75歳までの長寿家系とはいえないと思います。
2:次に当時のお偉い様と言われた、上杉謙信は49歳、武田信玄は53歳。豊臣秀吉は63歳まで長生きしたが最後の10年間は被害妄想的な痴呆症であったとの事で決して健康に長生きしたとはいいがたいと述べられています。栄養学的にみてもチョウ美味しい物を十分に採られていると考えられる人々もそんな『元気印で』長生きした方はいないとの結果が出ました。
3:生い立ちについての考察:家康は、岡崎城主松平広忠の長男として天文11年[1542]年に母の刈谷城主水野忠政の娘の御代の方のお腹から『おぎゃー』と言ったかドウカハ不明だが生まれました。6歳の時に今川義元の人質となり岡崎から駿府に送られる途中で浜松の10キロメートル西にある、筆者のおじいさんが農業をしていた潮見坂で待ち伏せしていた織田信長の配下の田原城主・戸田康光に誘拐されて、信長のオトーさんの織田信秀のお城である安祥城で信長に会った。信長は人を見抜く事に関しては天才だったそうで、家康[竹千代]を見た瞬間に『之は将来大物』と言ったかは解らないが、木剣[剣道]、馬術、水練を教えたそうです。8歳の時からは今川義元の人質となって同様の訓練をしていた。
4:徳川家康は9歳から19歳まで今川義元の人質になっていた頃にきっと、長寿の条件を自覚したのだろう。
1:剣術、水練、馬術などの十分な運動と体の鍛錬を続けてきた事。
2:人質の身だから、『こはんもくさい飯』とまでは行かなくても他の城主達よりも
質素なご飯であっただろう。之は『城主』になったあかつきにも『一汁一采』主
義であったとされています。
3:当事は京都と並んで繁栄を極めた駿府にいて天下の情勢を見聞きして、
今川義元、上杉謙信、武田信玄、織田信長、羽柴秀吉、柴田勝家、前田利家
などの将軍達よりも『長生き』しなければ決して『自分の天下』を取れないもの
と自覚したのだろう。この『誰よりも長生きして元気で頑張ろう』という『生への
限りない執着心』こそが『元気印で長寿した』一番の原因であったのだろう。
4:桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康はすぐに織田信長と同盟を結
び岡崎に戻った。岡崎城主になり、戦の合間を見ては『鷹狩』を行った。鷹を
追って山を超え谷を超え、正に現代の『トライアイスロン』を日課で行っていた。
『定期的にスポーツを行う事』の重要性を彼はよく自覚していたと考えられまし
た。
5:家康はとても勉強家で且つ薬学医学書をよく読んでいた。部下の侍が病気に
なると自ら薬を調合して部下に与え、色々な病気を治した。治された部下は感
謝をしていざとなったら命をもって彼を守ろうと心に誓うように、相手の心理を
読むのに長けていた。彼自身も自分用の薬を作製し飲み続けていた。その薬
は『万病丹[主成分はブシ]』と『銀液丹[水銀と砒素]』であったとされている。
自分の親父、おじいちゃんが暗殺されていた当時『薬殺』が最も恐れていた事
で、彼は現代の『経口的減感作療法』をすでに知っていた。これらの毒薬を少
量を服用する事によって『耐性』を獲得して、もし『毒を盛られても』少しくらい
飲まされても『へ一チャラ体質』になろうと努力していたと考察されます。
6:この万病丹と銀液丹は毒薬なので、粉だと飲みすぎる場合があるので、『丸
薬』にして『極極少量』ずつ毎日飲んでいたそうです。之を注意した筆頭侍医
の片山宗哲を信州に遠流させたほど自分で自信があったと考えられます。
7:家康はこの『毒薬の極々少量丸薬内服』が強壮・強精薬になる事を自分で体
験して知った。まさに現代の『バイアグラ』を『自分自身の生体実験』で知った。
之を毎日のみ16名以上の正室側室達と???をして、男子が11名と女子5名の
子宝に恵まれたのだろう。
5:家康の病歴について:44歳時に背中に出来物ができ握りこぶし大の『お灸』をえて治した。59歳時現代のマラリアかどうかはわからないが高熱が続いたのだろう。66歳淋病。72歳時淋病と梅毒に感染。上記の薬を使い自分自身で治療していた。元和2年1月21日『鷹狩』で献上された『鯛のてんぷら』を食べて以来食事がとれなくなり、4月17日に、『胃癌』又は『梅毒性ゴム腫』で75歳の人生を終えた。
結論:人生『長寿?』が一番良い事。運動と薬と、愛情、と?『一番大切なこと?』は元気印で長生きしようと言う意志が大切。家庭医を大切にしよう。納得〜く〜?。
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